part1:  ミルウォーキー時代 (1955~71年)

Howie Epsteinこと、本名 Howard Norman Epsteinは、1955年 7月21日(木)に生まれました。日本流の表現を使うと今年は「年男」ということになります。彼の故郷ミルウォーキーはシカゴから北に約140km、車で2時間ほどのウィスコンシン州の南東部にあります。ミルウォーキーといえば美しい景色と共に「ビール」を思い出す方も多いと思います。ドイツからの移民が多く住むこの街は「Miller Beer」の発祥の地でもあり、現在もここで生産されたビールが世界中に送り出されています。また、Howieが愛したオートバイのHarley-Davidsonが誕生したのもこの街です。「水辺の集会場」を意味するネイティブ・アメリカンの言葉がミルウォーキーの語源だと言われていますが、その名の通り穏やかで美しい街のようです。

Howieが育ったのはFox Pointというミルウォーキーの中心部から真北に14kmほどの場所で、町の東側にはミシガン湖が広がっています。父のSamは地元のレコード・プロデューサーでした。この頃のプロデューサー、特にローカルの場合はメジャーレーベルのプロデューサーのように自分のデスクに座ってデモテープを聞いたり、電話一本で話をまとめたりするのとは違い、地元のバーやパーティーに顔を出し、そこで演奏しているバンドの中から売れそうなものを探したり、ヒットしそうな曲を見つけ出したりという行為を毎日のようにしていました。Samもそうした活動をしていたのでしょう。地元ではトップ・ランクの存在だったという話もありますので、その交友関係の広さ、音楽に対する知識はかなりのものだったのかもしれません。

後年、Howieはインタビューに答えて「父が目をつけたバンドを見に、一緒にバーに行ったりしたよ。それで意見を言ったりしたんだ」と語っています。父は彼の才能に気付いてもいたのでしょうが、何よりも息子を愛し、慈しみながら育て、一緒の時間を共有したかったのでしょう。仲の良い親子の姿が浮かび上がってくるようです。Howieの持っている「柔らかいオーラ」は、こうした恵まれた子供時代に培われたものなのでしょう。

Howieが初めてギターに触れたのは5歳の時だったと、兄弟がインタビューで答えています。父が家に持って帰ってきたギターを弾き、すっかり虜になった彼は練習を繰り返し、かなりの腕前になっていったそうです。8年制のPeter Stormonth Elementary Schoolから Nicolet High Schoolへと進む間にバンド活動を始め、その頃の子供達の多くがそうであったように、彼もまたThe Beatlesに憧れ、彼らの曲を演奏していました。しかし、Howieの音楽的な早熟さと柔軟さは、彼をR&Rの演奏だけに留まらせず、カントリーバンドへの参加という、当時では珍しい行動をとらせてもいます。こうした活動を経て培ったものが、後年のプロデュース作業に大いに役立ったのは言うまでもありません。

バンド活動とは別に、シンガーとしてのHowieに関する逸話があります。16歳の時、地元の友人と一緒にシカゴのバーまで、Tim Buckley (*1)を見に行ったことがあるそうです。TP&HBのメンバーでTim Buckleyの音楽に惹かれた人間は、おそらくいないでしょう。独特な個性を持つ彼の音楽は、単なるシンガー・ソングライターの枠に収まらない幅の広いものでした。Howieのお目当てはバックでギターを弾いていたLee Underwoodだったようですが、こうした音楽的嗜好もあってか、バンドとは別にソロとして、Roger McGuinnのウィスコンシン大学でのコンサートのオープニング・アクトを務めたこともあるそうです。Howieの歌の上手さは、こうした経験を通して作られていきました。
(*1) Tim Buckley 夭折したフォーク・シンガー。1967年にデビューし、ジャズやプログレッシブ・ ロックの要素も取り入れた多様な音作りと、繊細で真っ直ぐな曲が魅力で した。75年6月29日、Santa Monicaの自宅でヘロインの過剰摂取により死亡。享年28歳。ここにもドラッグの犠牲者がいます...
 part 2 :  ミュージシャンへの道 (1973~82年)
1973年に Nicolet High School を卒業したHowieは、ウィスコンシン大学に入りますが、2年程で辞めてしまい、本格的にプロ・ミュージシャンを目指します。彼のバンド歴は分かっているだけでも、MHG Experience / Egz / Winks / Death / Forearm Smashと5つにもなります(最後のバンドはミルウォーキー初のニュー・ウェイヴ・バンドだったと言われていますが、どんな曲を演奏していたのでしょうか)。76年には地元の名うてのメンバーが集まって結成したThe Crazeにサイド・ギター&ボーカルとして参加します。バンドは60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンに影響を受けた曲を演奏して好評を博し、ミルウォーキーでは出演の場に困らないほどの人気バンドになりました。最近、The Crazeがレコーディングした4曲(*1)がインターネット上で公開されましたが、そこで聞くことのできるHowieのボーカルはアマチュアの域をはるかに超えるものです。

その後、Howieはバンドを離れ、当時ミルウォーキーに住んでいた(一説にはリハビリのために移り住んでいたと言われています) Leslie West(*2)と一緒に演奏をしたこともあるそうですが、新たな展開を目指してニューヨークへ行くことを決心しました。その頃のニューヨークといえばパンクとニュー・ウェイヴが最も輝いていた時期です。そこに飛び込んでいれば彼には違った人生が開けていたことでしょう。しかし、人間の運命というものは不思議なものです。旅立ちを目前にしていた彼に旧知のドラマーから誘いの声が掛かります。「John Hiattのバックでベースを弾かないか」と。

それまでにHowieがベースを弾いていたという記録を探すことはできませんでしたが、幼い頃からギターを弾き、音楽的に早熟だった彼のことですからきっとベースも弾きこなしていたのだとは思います。彼はこの誘いを受け入れ、当初の予定とは全く反対のL.A.へと向かいます。歌の上手いギター弾きの青年はベース・プレイヤーとして人々の記憶に刻まれていくようになるのです。
 
79年から80年に掛けてHowieはJohn Hiatt(*3) & White Limboのメンバーとしてツアーに参加します。また80年に発売された『Two Bit Monsters』のレコーディングにも参加、3曲でベースを弾いています(この時はHoward Epsteinというクレジット)。このうち"It Hasn't Happened Yet"は2001年に発売された『Living A Little LaughingA Little 74-85』というベストアルバムで聞くことができます。

Hiattのバンドで1年少しを過ごした後、"Trust Me"がヒット中だったCindy Bullensのツアーに参加したり、70年代後半のディスコ・ブームで大ブレイクしたVillage People("Y.M.C.A."や"In The Navy"を歌ったあのバンドです)のバック・バンドに加わったりして、演奏を続けていました。Howieが夢描いていたプロ・ミュージシャンというのがどういう形のものだったかは分かりませんが、少なくともその頃の彼の生活は故郷で思っていたものとは大きく違っていたでしょう。

そんなHowieとTP&HBが出逢います。それは、Del Shannonの復帰作である『Drop Down And Get Me...』の制作中のことです。このセッションは3回に分けて行われました。1度目は79年10月、その次は80年5月で、3度目の81年2月の回にHowieは初めて参加します。この出逢いはTPの、そしてHeartbreakersの未来を方向付けるものでした。おそらくTPが触手を伸ばしたのでしょうが、HowieはTP&HBのオーディションを受けることになります。場所はL.A.のSunset BoulevardにあるS.I.R. Studioでのこと。Village Peopleバンドで同僚だったドラムのJimmy Hunterと共に出掛けたそうです。

結果はみなさんもご存知の通り、アルバム発売後にツアーに出ていたDel Shannonのバックで演奏しているHowieを半ば無理矢理に引き抜く形で移籍させるという「暴挙」にでました。それ程、彼の才能に惚れ込んだのでしょう。それ以降のバンドでの活躍については、改めて触れる必要はないでしょう。
(*1) The Crazeの音源 1. Under My Thumb  2 .I Wanna Be Your Man  3. Glad All Over  4. I Like It の4曲。1と2はRolling Stones(2の作者はLennon/McCartney)、3はDave Clark Five、4はGerry & The Pacemakersで有名な曲。  http://www.gonegator.com/pictures_pochahontas5.asp
(*2) Leslie West アメリカのハードロック・バンドMountainのギタリスト。CreamのアルバムをプロデュースしたFelix Pappalardiに見い出され70年にデビュー。メロディアスで豪快なソロを得意とする巨漢ギタリスト。
(*3) John Hiatt Howieと同じ1952年生まれ。日本ではTP同様に過小評価されていてセールスには縁がありませんが、彼の曲は多くのミュージシャンに取り上げられ、常に動向が注目される、まさしく「ミュージシャンズ・ミュージシャン」ともいうべき存在。


 part 3 :  Carlene Carterとの出会い (1983~90年)

Howie Epsteinは、優れたミュージシャンであると同時に、プロデューサーとしての才能も持ち合わせていました。そうした活動の中で、彼は運命の女性と出会います。

Howieの課外活動は、1983年のStevie Nicks 『Wild Heart』から始まります。もっとも、この頃のセッションにはHeartbreakersとしての参加が多く、単独では88年のCarlene Carterとの出逢いから始まる「愛のコラボレーション時代」まで待たなければなりません。

Carlene Carterこと、Rebecca Carlene Smithは、1955年9月26日(月)生まれ。祖母 Maybelle Carterは、あの「Carter Family」のメンバーで、その娘のJune Carterを母に、人気カントリー・シンガー Carl Smithを父に持つという音楽に囲まれた環境で生を受けました。

Howieに出会うまでのCarleneの人生はまるでドラマのようです。16歳で結婚&女の子を出産、17歳で離婚。2年後に再婚し、男の子を生み、21歳でまたもや離婚。77年にようやく、Warner Bros.Recordsのレーベル Repriseと契約を結びミュージシャンとしての活動をスタートさせます。80年には共作した"One Step Closer"が、Doobie Brothersのアルバムに収録され脚光を浴びますが、何と言っても世間の注目を集めたのは、ファースト・アルバム『Carlene Carter』のセッションで知り合ったNick Loweとの結婚でしょう(79年8月18日 L.A.で挙式)。

Carleneの続く2枚のアルバム『Musical Shapes』(80年)、『Blue Nun』(81年)のプロデュースをNickが担当するなど、公私共に充実した時間が続いた2人ですが、83年頃からスレ違いが始まり、86年暮れには離婚してしまいます。Carleneのアルコールへの依存とコカインの使用(後に起こる悲劇の萌芽がここで見られます)、さらに2人それぞれの恋愛、そしてCarlene妊娠など、様々な要因が2人の結婚生活に破綻をもたらしたと言われています。

傷心の彼女に転機が訪れたのは、Carter Familyがツアーのためにイギリスを訪れた時のことでした。病気の伯母 Anitaの代役を頼まれた彼女はメンバーの一員として、87~88年にかけてのツアーに参加したのです。その時、彼女は自分の体の中に流れる「歴史」を感じました。グループのレパートリーはどれも、カントリー、そしてフォークソングそのものでした。迷っていたCarleneにとって、それは進むべき道を示してくれたも同然だったのです。

Carter Familyとして2年間活動した後、彼女は自身のアルバム制作を強く望むようになりました。しかし、活動の本拠地であったイギリスでは全く相手にされず、本国アメリカでも「パンク・ロッカーたちと馬鹿騒ぎしていた女」と冷たい視線にさらされていて、彼女の側で夢の実現に手を貸してくれるような人間は存在しませんでした。そんな時に、彼女はHowieと出会います。1988年のことです。

その頃、HowieはCarol Lefflerという女性と一緒に暮らしていました。2人の間にはJamieという女の子がいます。CarolはTP&HBのビデオ『A Bunch Of Videos And Some Other Stuff』に、Howieと一緒に出演していたので、覚えている方も多いのではないでしょうか。彼女の名前はエンド・クレジットの「Thanks to...」のブロックで、Jane Petty(当時のTPの奥さん)と一緒に登場しています。

HowieとCarleneの出会いに関しては、残念ながら確かなことは分かりません。プロデュース経験の無いHowieが何故、彼女のプロデューサーになりえたのでしょうか。当時のインタビューを読むと、当初はシングルのレコーディングのためメンバーが集められたそうです。その中にHeartbreakersのBenmontとHowieがいたのですが、彼はベースではなくギターを弾いているのです。それから考えると、この時点でHowieは、プロデューサーとしてセッションをまとめていたのではないかと推測されます(詳しいことが知りたい…)。

いずれにせよ、このセッションは大成功を収め、"I Fell In Love"(90年)はカントリー・チャートの3位を獲得する大ヒットとなりました。その勢いを受け同名のアルバムが制作され、こちらもヒット(19位)、Carlene Carterはカントリー界のみならず、アメリカの音楽シーンで初めて自分の地位を確保することができました。そしてHowieも、プロデューサーとして様々なミュージシャンと仕事をするようになっていきます。

程なく、2人は歌のタイトル通り「恋に落ちて」いきます。しかし、その先には思いも寄らぬ結末が待っていました。

 part 4 :  Last Dance with Mary Jane (1991~2003年)

『I Fell In Love』のヒットを受け、Howieに新たなプロデュースの依頼が舞い込みます。"Hello In There" "Some Stone" "Angel From Montgomery"などの名曲を書き、デビューの時に「第二のBob Dylan」と称されたJohn Prineが、その相手です。当時、アルバム制作に行き詰まりを感じていたJohn Prineと彼の長年のパートナーであるAl Bunettaは、この事態を打開する方法を模索していました。

丁度、その頃ヒットしていたのが "I Fell In Love"で、これを聞いた2人は新作のプロデュースをHowieに任せることに決めたのです。そうして始まったレコーディングですが、Howieの音楽に対する真摯な姿勢にJonhとAlは驚き、深い信頼を寄せるようになりました。結果的に、TP、Mike、Benmontも参加したアルバム『Missing Years』 (1991年)は、Johnに初めてのグラミー賞をもたらすという快挙を成し遂げたのです。Howieのプロデューサーとしての評判は一気に高まっていきました。

1993年には、Giant Recordsに移籍したCarleneの『Little Love Letters』を手がけ(Benmont作の名曲"Unbreakable Heart"が入っています)、またRiver Phoenixの遺作となった映画『The Thing Called Love』(日本未公開)の中の1曲をプロデュースしたりと充実した生活を送っていました。

そんなHowieの変貌ぶりが、90年代後半になってファンの噂になりはじめました。当初は痩せてスッキリした感じでしたが、99年の春に行われたFillmoreでのライヴでの彼の姿は、イメージチェンジと呼べる以上の事が、Howieの身の上に起きていることを如実に表していました。しかし、その後もツアーを続け、TP&HBとしての活動を続けていたので、大事には至らないのではないかとファンの多くは(希望を込め)考えるようになっていきました。この時点で、Howieに残された時間が少なくなっていたことに気付いた人間は、ほとんどいなかったでしょう...

2001年の6月27日(水)未明、スピード違反を咎められたHowieとCarleneの2人は、警官に停車を求められ、その際に車内からヘロインなどが発見されたために緊急逮捕されました。この件で、Howieが罪になることはありませんでしたが、結局こうしたことが積み重なり、彼は2002年の5月にHeartbreakersを離れなければならなくなりました。事実上の「クビ」です。

ファンの多くがHowieを最後に見たのは、その年の3月に行われたR&R Hall Of Fameの授賞式での姿です。激ヤセしたその顔からは、若き日の面影は微塵も無くなっていました。

前述の事件の結果、Carleneは18ケ月の保護観察処分になり、Howieのもとを去っていきます。もっとも、再三の呼び出しに応じない彼女に対して、裁判所が強硬な姿勢を見せた結果、初犯にもかかわらず、こうした重い罪を課せられたのです。

1人サンタ・フェに残ったHowieは、Carleneと別れてからしばらくして、Tanyaという女性と交際を始め、同時にバンド活動も再開します。しかし、彼にとってこうした行動は救いにはなりえなかったようです。人生の半分近くを過ごしたバンドから去り、愛した彼女とも離れて暮らさなければいけなくなった彼は、やがて暗い闇にひきこまれていきました...

2003年2月24日(日)未明、Howieは我々の前から旅立っていきました。こうした事態が起きないようにできなかったのかと考えても、今となってはどうしようもないことです。Howieの残してきた演奏を聴き、彼を感じてあげることしかできません。

ミルウォーキーから始まった旅は、こうしてサンタ・フェでエンディングを迎えました。彼よりも1日前に息を引き取ったという愛犬Dingoと共に、Howieは静かに眠っているのでしょう。

Howard Norman Epstein こと Howie Epstein
多くの人にとっては、ドラッグで命を落としたミュージシャンという存在でしかないかもしれません。
でも、ファンは覚えています、
彼の笑顔の優しさを...
彼の歌声の暖かさを...

Here Comes A Heartbreaker!