Traveling Wilburys:History

text by TOSHI 

April, 1988 

George Harrison と Jeff Lynne は、L.A.のレストランで夕食を共にしていました。2人の話題は「When We Was Fab」に続くヨーロッパ向けの12インチシングル「This Is Love」のB面に収録するための曲をどうするかという事にありました。当時、Jeff は Tom Petty と Roy Orbison のプロデュースを手懸けていて、George のために時間を割くという事ができにくい状況が続いていたのです(この時の会食には Roy も同席していました)。George が所属する Warner Bros.への提出期限も迫っていたので、すぐにでも新曲を録音しなければならなかったのですが、急なために録音場所がありません。

色々とアイデアを出し合っているうちに Jeff が、「Bob の家はどう?あそこのガレージに小さなスタジオがある」と何気なく口にしたそうです。B面収録曲なので正式なスタジオでの録音より気楽にやりたいという思いが George にはあったようで、このアイデアに喜んで飛びつきました。レストランから Bob Dylan に電話をすると、「ガレージの隅に転がっている小さな器材(Ampex)が使える」という返事をくれたので、翌日レコーディングをする事に決めました。

その後、2人は TP に預けたギターを取りにいきますが、そこで TP をレコーディングに誘います。彼は「よかった、明日は何をしようかと考えていたところだ」と喜んで参加を申し出ました。Roy も「明日、何か起こりそうになったら電話してくれ。私もぜひ行きたい」と、George と Jeff に話していたそうです。こうして何気ないきっかけからメンバーが決まっていったのです。

Handle With Care

翌日の昼近く、マリブにある Dylan 邸に集合したメンバーは、前日、George がアコースティックギターで考えた短いアイデア(というかリフ)を元に構成を練り上げていきました。場所は裏庭の芝生の上。結局、夕暮れまでにメロディーを完成させ、リズム・ギターだけのベーシックトラックを仕上げました。

その後、歌詞作りに入った George は、紙と鉛筆を持って「助けてくれ!誰か歌詞を考えてくれよ!」と言いながら、Dylan に向かって「ねえ Bob、有名な作詞家先生、ボクらのために詩を書いてよ」と持ちかけました。そう言われた Dylan は気分転換を兼ねて手を貸すことにしました。「それはどういう歌なんだ?タイトルは何なんだ?」と Dylan に尋ねられた George がガレージのなかを見回すと、ドアの後ろに大きな段ボール箱があり、そこには「こわれもの、取扱注意(Handle With Care)」という文字が書かれていました。Georgeは反射的に、「”Handle With Care” という歌だ」と Dylan に告げると、「うん、いい。気にいったよ」と Dylan は頷き、歌詞を考え始めたそうです。「タイトルが決まれば、あとは順調に進んだ。ぼくたちはそのメロディに29番までの歌詞をつけた。こうして “Handle With Care”が録音された」と George は語っています。

セッションの翌日、完成したばかりの”Handle With Care”を聴かせた Warner Bros.のスタッフから「B面に収録するのではもったいないのでは?」という意見が出されました。その意向を受け、George と Jeff がビールを飲みながら、あれこれと話しているうちに「それならば、あと9曲作ってアルバムにしてしまおう」ということにまとまりました。そのアイデアを抱えTPの家に行くと、彼は快諾。そこから Dylan の家に電話すると、無愛想ながらも承諾の返事をしたそうです。残りは Roy だけです。この晩、彼はアナハイムでコンサートに出演する予定でした。一刻も早くこの知らせを伝えたい George、Jeff、TP の3人は各々の車に夫人(Olivia、Sandi&Jane)を乗せ会場まで出掛けていきました。事の顛末を 聞いた Roy も大喜びして賛成したそうです。

The Traveling Wilburys

シングルと違い、アルバムのレコーディングにはまとまった時間とスタジオが必要になります。この時期、一番多忙だったのは Dylan でした。6月7日から始まるツアーと、そのリハーサルが控えていたのです(このツアーは後にファンが命名することとなる「Never Ending Tour」の始まりでした)。しかし、5月初めであれば参加できるという事になり、場所の問題も Dylan のプロデュースを手がけたことがあり、TPの友人でもある Dave Stewart の自宅にあるスタジオを使うことで解決しました。

レコーディングを開始して間もなく、5人のミュージシャンのボキャブラリーの中に「Wilbury」という言葉が加わりました。

これは Georgeのアルバム『Cloud Nine』の録音中に使われていた仲間言葉で、「スタジオにおけるトラブル・メーカー」の事を指していたそうです。それが高じて、George と Jeff は「Trembling Wilburys (トレンブリング・ウィルベリーズ)」という架空のバンドを考え出しては喜んでいました。2人が好きな仲間を集めてバンドを結成するというアイデアは、スタジオの中でのみ通じる冗談のようなもので、そんな空想に耽りながら何日にも及ぶスタジオワークをこなしてきたのでしょう。

しかし、その思いが現実になりました。当然のごとく、夢に描いていた通りのメンバーが集まったこの組み合わせに、「Trembling Wilburys」という名称を使おうとしていたようです。しかし、Dylan の「Traveling の方が良い」という提案で、最終的に「Traveling Wilburys」に決まりました。

Volume One

Dave Stewart 宅での実り多いセッションを終えた George と Jeff は、マスターを抱え、イギリスにある George のホーム・スタジオ F.P.S.H.O.T.(Friar Park Studio, Henley on Thames=フライヤー・パーク・スタジオ、ヘンリー・オン・テムズ)で追加録音を行い、再び L.A.に戻ってアルバムを完成させました。

7月、雑誌「USA Today」が初めてグループの事を報じました。異なるレコード会社に所属しているミュージシャンが、1つのバンドを組むという前代未聞のプロジェクトのため、メンバーの本名は明らかにしないという措置が取られたのです。そのため「謎の覆面バンド」とも言われましたが、当初からなぜか写真は公表されていたので、参加メンバーは自ずと知れ渡っていきました。10月のアルバムの発売に向けて、各人のファンのみならず、様々な人々の間で憶測が飛び交い、期待感が高まっていったのです。

10月、ファーストシングル “Handle With Care”と『Traveling Wilburys Vol.1』がリリースされました(日本での発売は11月末)。発売前から流されていた”Handle With Care”のプロモーションビデオの魅力も手伝って、『Vol.1』は好調なセールスを記録し、Billboard では残念ながら2位止まりでしたが、Cash Box では見事1位の座を獲得しています。Wilbury たちはプロモーションにも積極的に参加し、インタビューに応えてレコーディング・セッションの事などを楽しげに語っていました。

『Vol.1』の完成後、メンバーは各々のプロジェクトに戻っていきました。8月に”Handle With Care”のプロモーションビデオの撮影で集まったのが、オリジナルの5人が顔を合わせた最後でした(アルバム発売前後のプロモーションには、ツアー中のために Dylan は参加していません)。

End Of The Line

12月4日、TP は Heartbreakers の面々と 2nd Bridge School Benefit Concert に参加、同日、Roy はクリーブランド近郊の Front Row Theater のステージにいました。そして、これが彼にとって最後の演奏になってしまうのです。12月6日、ナッシュビル郊外にある母親宅のバスルームで心臓発作を起こし倒れている Roy が発見されました。すぐさま、Hendersonville Hospital に運ばれましたが、手当の甲斐なく午後11時54分に息を引き取りました。享年52。

TP は89年のインタビューで、「Royと最後に話したのは、彼がなくなる2、3日前、電話でだったと思う。Roy は Wilburys のアルバムがプラチナ・レコードになった事で、とても興奮していた。『すごいと思わないか?すごいよね!』とばかり言っていた」と、最後になってしまった会話を思い出しています。

Roy の葬儀の翌日、残ったメンバーが集まり、”End Of The Line”のプロモーションビデオの撮影が行われました。誰も座っていないロッキング・チェアが静かに揺れ、そして、そこに立て掛けられたギター。何とも物憂げな雰囲気を湛えたビデオが作られました。「いろいろな意味であの時、Roy はあそこにいたのだと思う。ぼくたちは彼がいるのを感じていた。1日前にRoyの葬儀があったばかりだったから、ビデオ撮影の時は少し悲しかった。だが、ぼくたちは仕事を続けようとした。それが彼のためになることを願っていた」と、その時の気持ちをTPは語っています。

『Vol.1』からのセカンドシングル “End Of The Line”が発売されたのは、1989年2月。それより少し前に Roy の遺作『Mystery Girl』が発売され、アメリカ・イギリス両国でTOP10にランクインしました。