成功と苦難の時( 1980年代前半 )
『Damn The Torpedoes』の成功は、TPにとって新たな苦難の始まりでもありました。Iovine はじめ周囲の人々は、TP&HB に対して常に『Torpedoes』でのようなサウンドを求めるようになり、それが彼らにとってはある種の苦痛になっていきます。特に、TPの中には同じことの繰り返しを望まず、常に新しいものに挑戦したいという欲求がありました。
加えて、ショービジネスの世界は、彼らにとって決して居心地の良いものではありませんでした。セカンド・アルバムに収録された”Listen To Her Heart”では、レコード会社側(この時はABCレコード) から「cocain」という歌詞の変更を迫られ、これを拒否(*1)。続いて、『Torpedoes』レコーディング中の一連の法廷闘争。さらに『Hard Promises』の発売に際しては、MCA がアルバムの価格を $8.89 から $9.89 に引き上げようとしているのを知って、抗議の上、撤回させるという事件も起きました。
続く、『Hard Promises』、『Long After Dark』 の制作には、彼らの置かれていた微妙な状況が、少なからず反映されているように思われます。しかし、そんな中でも彼らの魅力をストレートに表現した作品を発表し、精力的なツアーを続けることで、より多くのファンを獲得し、その地位を不動のもにしていきます。
順調に進んでいた TP&HB でしたが、『Hard Promises』ツアー後の1981年、ベースの Ron Blair が脱退。ツアーとレコーディングに明け暮れる生活から抜け出したくなったのだといいます。Ron に代わって Heartbreakers に加わったのは、Howie Epstein(『Long After Dark』から)。TP がプロデユースを担当した Del Shannon のセッション(*2)で、Shannon のバックを務めているところを引き抜いたのです。TPは、Howie をベース・プレイヤーとしてだけでなく、ハイ・ハーモニー・シンガーとして高く評価、その能力を買ってのことでした。
1983年、『Long After Dark』をサポートするツアーを終えた TP は、ここでしばらく HB と離れ、自分のルーツである南部をテーマにした 2枚組のコンセプト・アルバムをソロ名義で制作しようと決意します。しかし、自らのプロデュースで自宅スタジオで制作を進めるうちに作業は混乱を極めます。そして、ついには疲れとストレスから、TPは壁に左手の拳を叩き付けて骨折。一時は、ギター・プレイヤー生命も危ぶまれました。
しかし、元 Eurhythmics の Dave Stewart や Jimmy Iovine、そしてHBたちの協力を得て、なんとかアルバム完成にこぎつけ(この『Southern Accents』は最終的に TP&HB 名義の作品となる)、久しぶりのツアーに出ました。そのツアーの模様を収録したのが、今のところ唯一のライヴ・アルバム『Pack Up The Plantation-Live!』です。
怪我によって活動停止を余儀なくされている間に、TP は自分が曲を作り、歌い、そしてギターを弾くことを、どんなに愛しているのか再確認したといいます。この怪我が TPにとって、ターニング・ポイントとなったのは言うまでもありません。
*1) cocain
レコード会社側は「cocain」を「champaign」に変えるように迫るが、TPは「それじゃあ安すぎる」と主張して譲らなかった。
*2) Del Shannon のセッション
TP は Del のアルバム『Drop Down And Get Me …』をプロデュースしている。
ターニング・ポイントから新たなチャレンジ( 1980年代後半 )
さらに、もう一つ大きな転機がやってきました。1985年 9月 22日に行われた Farm Aid コンサートで、彼らは Bob Dylan のバックを務めました。この組合わせは大好評で、意気投合した彼らは、一緒にツアーを行うことになります。
86年 2月の Far East (*1)を皮切りに、6~8月の全米、続く翌 87年 9~10月の欧州まで、2年にわたる実に90回に及ぶステージは、大きな反響を呼び、ファンの熱狂的な支持を得ます。このツアーが、TP&HB に与えた影響は計り知れません。これ以降の彼らの活動は、一層精力的でありながらも、どこか余裕の感じられるものになっていくのです。
しかし、ここでまた次なる苦難が待っていました。1987年 5月、TP はロサンゼルス郊外エンシーノにある自宅を何者かに放火され、この火災のため、自宅とほとんどの所有物を失ってしまいます(被害額は800,000ドル)。しかし、一連の災難でかえって強くなったと Tom は言います。「ずっと負けるもんか(I Won’t Back Down)って思ってやってきた」のだと。
Dylan とのツアーや『Let Me Up』の発表で、HB との活動に一区切りがついた87年末から、TPは再びソロ・アバムの制作にとりかかります。丁度、George Harrison の新作を聴いて、プロデューサーである元 ELO・Jeff Lynne の手腕を高く評価していた TP は、Lynne を自宅に招きます。
2人はまず一緒に曲を作り、出来上がるとすぐに Mike Campbell の自宅スタジオへ飛んで行って録音。最初の曲(”Free Fallin'”)の出来の素晴らしさに気を良くした彼らは、さらに作業を続けます。こうして、アルバムのレコーディングは進んでいきました。TP にとっては曲を作り、演奏し、レコーディングすることが、楽しくてたまらない時期だったようです。そして、完成したアルバム『Full Moon Fever』 はトリプル・プラチナ(*2)を記録する TP の代表作となりました。
同時期、TP はもう一つの課外活動に参加します。Harrison / Lynne / Orbison / Dylan / Petty によるスーパー・グループ、Traveling Wilburys (*3)です。ビッグ・ネームのアーティストが集まったという話題性だけでなく、彼ら自身が楽しみながら演奏することで素晴らしい作品を生み出し、成功を収めました。ここでの TP はいつもながらの自然体で、兄たちとの演奏を心から楽しんでいるようです。
また、この時期、HB たちも精力的な活動を行っています(*4)。それぞれが高く評価されるとともに、そこから様々な交流が生まれました。これらの収穫をもとに TP&HB はさらに活動の幅を広げていくのでした。
*1) 86年の Far East Tour
86年3月に日本公演が行われています。
*2) トリプル・プラチナ
1990年3月時点。2000年10月には 5 platinum を記録。
*3) Traveling Wilburys
Traveling Wilburys についてはこちらをご覧ください。
*4) 課外活動
TP&HB外での活動はこちらを参照ください。