Traveling Wilburys:History

1989年… 残された Wilbury たち

George は、Eric Clapton の新作のために”Run So Far” “That Kind Of Woman” “Cheer Down”の3曲を提供しましたが、冬に発売された『Journeyman』に収録されたのは”Run So Far”のみでした。TP との唯一の共作曲 “Cheer Down”は George も気に入っていたようで、彼の手によってレコーディングされ、この年に公開された映画「Lethal Weapon2」のエンディングに選ばれました(シングルとしても発売)。7月に長期休暇に入る直前まで選曲していた『Best Of Dark Horse 1976-1989』は10月に発売されましたが、そこにも”Cheer Down”は収録されました。

Dylan は5月27日から11月15日の間に、再び「Never Ending Tour」に出かけます。10月には、U2との仕事で有名な Daniel Lanois のプロデュース作『Oh Mercy』をリリースしました。

Jeff は、Warner Bros.の系列である Reprise と契約を結び、初めてのソロ・アルバムの制作に没頭していきます。

そしてTPは …
89年、TPは『Full Moon Fever』のセッションを再開して、アルバムを完成させました。発売は3月。第一弾シングルは、Georgeも参加している “I Won’t Back Down”。このアルバムには、Dylan 以外の Wilburys のメンバー全員が参加しています(Roy Orbison も”Zombie Zoo”のコーラスに)。

その後は、『Full Moon Fever』のプロモーションとツアーに費やしましたが、実は彼を取り巻く環境に大きな変化がありました。

当時のアメリカの音楽業界は、4大レコード会社(MCA、CBS、BMG、Warner Bros.)が市場を占有している状況でした。その中でも Warner Bros.のセールスの伸びには目覚ましいものがあり、ついにはこの年、Billboard 誌のトップ・ポップ・アルバムに占める同社系列の所属アーチストの割合いが40%を越えるまでになりました。また同年、Time との合併(買収の方が正しいかもしれませんが)により、Time Warner 社として生まれ変わり、さらなる拡大を遂げようとしていました。

Traveling Wilburys の結成に、只一人異義を唱えたレコード会社重役が居ると言われていますが、それは当時 TP が所属していた MCA の Irving Azoff だと思われます。Azoff は、Warner Bros.と会長の Mo Orstin に激しい敵愾心を抱いていました。最大のライバルである Warner Bros.に、話題性のある Traveling Wilburys のアルバムを発売されることを嫌い、TP の参加に不快感をあらわにしたのでしょう。以前からレーベルとのトラブルが絶えない TP にとっても、Irving Azoff の強引で独善的なレーベル運営方法には反感を感じていた様子が見受けられます。

Traveling Wilburys としての活動が直接的な原因であったかどうかは断言できませんが、とにかく TP は MCA を離れる決心をします。その時点で、MCA とアルバム4枚分の契約を残していながら、Warner Bros.と新たな契約を結ぶという大胆な行動にでてしまうのです。その内容はアルバム6枚で2千万ドル(当時のレートで換算すると2億7千万円くらい?)というものでしたが、この契約は92年春にスクープされるまで秘密にされていました。

Traveling Wilburys, Again

1990年 4月 …
George の妻 Olivia たちが、ルーマニアの孤児救済を目的とした団体「Romanian Angel Appeal」を設立。その活動を支援するために Wilbury たちが再び顔を揃えました。録音されたのは”Nobody’s Child” 1曲ですが、2年振りのセッションで旧交を暖めあったことでしょう。この曲はカントリー・シンガー Hank Snow のレパートリーでした。タイトルや歌詞が、当時のルーマニアの子供たちが置かれている状況に合っていたために選ばれたのではないでしょうか。

6月にシングル”Nobody’s Child”、そして7月には『Roumanian Angel Appeal』リリース。

発売前後、George は単独、あるいは Olivia を伴ってプロモーションのためにTVやラジオに出演し、また雑誌の取材も多く受けました。インタビューやマスコミ嫌いという評判の George ですが、Traveling Wilburys 関連のこととなると、全く違う一面を見せてくれます。非常に社交的な紳士という感じでした。

『Roumanian Angel Appeal』の中には以前、George が Clapton に提供した”That Kind Of Woman”の Clapton バージョンが収められていました。これは新録音ではなく、『Journeyman』制作時のデモバージョンだといわれています。結局、使われなかったのですが、このデモは George の手を介して Gary Moore に渡されました。彼はこの曲を気に入り、『Stiil Got The Blues』に収録することに決め、そのセッションに George を招きました。(この出合いが後々…)

この時の再会を契機に、4月下旬から、L.A.郊外 Bel Air の屋敷にこもって、新たなアルバム制作が始められました。5月、Jeff Lyne の初めてのソロ・アルバム『Armchair Theatre』がリリース。充実した内容にファンの間では好評でしたが、残念ながらセールス面では大きな成果を生みだすことはできませんでした。その間にもレコーディングは続けられ、終了したのは5月半ばのことでした。

アルバムのレコーディングを終えると、Dylan は再びツアーに出発。『Vol.1』と同様、George と Jeff は F.P.S.H.O.T.で追加録音を行い、L.A.でマスターを完成させました。

『Traveling Wilburys Vol.3』 のリリースは奇しくも『Vol.1』と同じ10月でした。ファースト・シングル “She’s My Baby”で聞くことのできるハードなギターはクレジットにもある通り、Garry Moore がプレイしたもの。『Stiil Got The Blues』のセッションに George が参加してくれた事に対する返礼だと言われていますが、リズム・ギタリストばかりの Wilburys の曲の中ではかなり異色な音を聞かせてくれています。

今回も、Dylan 以外の Wilbury たちは積極的にプロモーション活動を行いました。MTVの番組ではイスに座ったままですが、TPの歌う”Wilbury Twist”に合わせてブックレットに書かれていた通りのダンスを披露してくれたりもしました。しかし、残念なことに前作ほどの話題にならず、売り上げも伸びませんでした(チャートでも11位止まり)。

Last Time Around

これ以降、Wilbury たちはそれぞれの旅を続けます。その歩く道は時折、交差してゆきました。91年、TP は『Into The Great Wide Open』のプロデュースを Jeff に依頼。92年10月16日、George と TP は Dylan のデビュー30周年記念コンサートに出演。12月9日には Billboard Magazine が新設した「Century Award」の第一回受賞式が行われましたが、受賞者は George、プレゼンターは TP でした。

George はインタビューの中で「俺の前のバンド(The Beatlesの事)の時には、誰かと一緒に曲を書く事なんてなかった。他人と共同で曲を書くのは割と大変だと思うんだけど、Tomとは凄くやりやすかった。あんないい奴はいないよ。歌詞を考えるのは難しいんだけど、Tom はすっと考えちゃうんだぜ」と年下の友人に敬意を表しています。Wilburys 後も、George と TP の交流は親しく続いていきました。

Wilbury の名前が最後にクレジットされたのは、92年に発売された George Harrison with Eric Clapton and His Band の『Live In Japan』です(プロデュースが Nelson & Spike Wilbury)。あれから10年の月日が流れました。その間に、Traveling Wilburys 再編の噂が何度となく立っては消えていきました。当の本人達(特に TP と George)もしばしば Wilburys 再結成を口にしていますが、残念ながら実現されることがなかったのは、みなさん御存じの通りです。

2000年、Warner Bros.との契約終了に伴い、原盤が George の元に返却されましたが、その中に Traveling Wilburys も含まれていました。そう遠くない将来に George の手で再発されるのではと言われ続けてきましたが、これも今日に至るまで実現されていません。

こんなエピソードがあります。1999年12月30日、George は暴漢に襲われ深い傷を負いました。その時に入院した The Royal Berkshire Hospital の広報官は集まった多くの報道陣にこんなコメントを発表しました。

George は、このような状態でもユーモアを忘れませんでした。「あいつは強盗なんかじゃなかったとしても、少なくとも、Traveling Wilburys のオーディションを受けにきたんじゃないってことは確かだね」とジョークを言っていました。

彼の心の中に、Traveling Wilburys は特別なものとして存在し続けていた証のような気がします。

2001年11月29日、My Sweet Lord の元に George が旅立つことによって、Wilburys の物語は最終章を迎えました。悲しみに沈んでいる、残された Wilbury たちや私たちに George は歌っていてくれていることでしょう。

Well, It’s all right  Even if the sun don’t shine
Well, It’s all right  We’re going to the end of the line